八王子千人同心

国有の文化を育てた半農半士
 江戸時代、八王子は「八王子千人同心」という武士集団の屋敷がありました。この屋敷は、現在の西八王子駅周辺にあって、甲州街道をはさんで、おおむね南側に「千人頭」の屋敷、北側に「同心屋敷」と分かれていました。千人頭の屋敷は、明治維新によって取り壊され、同心屋敷は、その後の火災、空襲、開発などによって、その跡をほとんど留めていません。「千人町」という町名が、わずかにその名残りを留めているだけです。

 千人同心は、天正10年(1582年)の武田氏滅亡によって、徳川氏の家来となった武田氏の家臣「小人組」を祖としています。徳川家康は、旧八王子城下の治安の安定と江戸の西の守りのため、、天正18年(1590年)、小人頭9家、小人250人を旧八王子城下に移住させました。その後、文禄2年(1598年)に現在の千人町の辺りに屋敷を与えられ、千人頭10家、小人100家が移り住みました。

 このため、屋敷のある町を「千人町」、小人組「千人同心」と呼ぶようになったのです。千人同心の多くは、普段は農耕に従事し、いざというときに武器を持って戦う半農半士の生活をしてました。

 千人同心の役割は、甲州口の警備だけではありませんでした。北海道の勇払(現在の苫小牧市)に開拓と北方警備のために派遣されたり、日光・東照宮の火消し役として配置されたりしました。
 これらがきっかけとなり八王子市は、昭和48年(1973年)に苫小牧市と、   昭和49年(1974年)日光市と、それぞれ姉妹都市の盟約を結んでいます。

 また、千人同心は文化面でも多くの功績を残しています。文化10年(1813年)、千人同心組頭・原胤敦は幕府の命令を受け、千人頭の植田孟晋や塩野適斎らと「新編武蔵風土記稿」の編纂に従事しました。この「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の武蔵国の地理・歴史を知る貴重な資料となっています。

 江戸時代の末、慶應4年(1868年)3月、江戸進撃のために官軍が八王子にも進駐してきました。このとき、千人同心が恭順の意を表したため、八王子は戦火を免れました。しかし、「江戸を守れ」と、官軍に抵抗するために結成された「彰義隊」に参加した同心も多かったといわれています。

 しかし、同年6月、幕府の命令によって、ついに組織を解体されて姿を消してゆきました。多摩の農民として暮らした同心たちは、多摩の地を育て、文化を蓄え、新しい時代の礎を築きました。