八王子城と北条氏照

八王子、地名の由来
 小田原に本拠をおいた北条氏は、鎌倉幕府の執権だった北条氏に対して後北条氏、または小田原北条氏と呼ばれています。北条氏政権は、戦国の幕を開けたといわれる北条早雲によってその基礎がつくられました。その後、2代氏綱、3代氏康、4代氏政、5代氏直と5代100年の間に関八州に覇をとなえるようになります。滝山城主となった北条氏照は、城の大改修を行ったといわれています。

 滝山城は加住丘陵の一角に位置し、複雑な地形を巧みに利用した天然の要害です。城内は空堀と土塁によって区画された大小30の曲輪が配置され、外敵の侵入に備えた心配りは実に見事です。永禄12年(1569年)、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中に、約2万人の兵で滝山城を囲みました。二の丸まで攻め寄せるほどの猛攻を受けましたが、城主・氏照を中心に家臣たちも、よくこれに戦い耐えて守りぬき、落城を免れたといわれます。しかし、この事件で氏照は、甲州勢に備える戦略的な利点から八王子城を築き、移転しました。

 八王子を代表する戦国時代の城郭として、まず頭に浮かぶのが北条氏の最大の支城である八王子城です。八王子城は元八王子町三丁目と恩方町にまたがる広大な山地に築かれた城です。この頃から城郭は、一般に平城化する傾向がみられますが、氏照は時代に逆行するするかのように新たに八王子城を築城します。しかも、八王子城が未完成のまま移城したともいわれています。

 しかし、まれにみる大城郭を構想していたらしい氏照の意図は謎に包まれたままになっています。また、築城の時期についても明らかではなく、元亀から天正年間(1570代)頃と考えられています。天正18年(1590)6月23日、豊臣方の前田利家・上杉景勝の連合軍に攻められた八王子城は激戦の末、1日にして落城してしまいます。 この八王子城落城は、小田原城の開城をうながし、北条氏の滅亡につながります。そして八王子を含む関東は、新しい時代を迎えることになります。

 ところで、この八王子城は、八王子の地名の由来ともいわれています。さかのぼって平安時代、華厳菩薩という名僧が現在の元八王子町三丁目に庵を建て、牛頭天王と8人の王子を祀って八王子権現と呼びました。そして、氏照が同じ地に城を築き、守護神として八王子権現を祀り、城を八王子城と呼んだのです。

八王子城跡
 八王子城跡は八王子市街地の西方、元八王子町三丁目と下恩方町にまたがる広大な山地にあります。戦国時代の終わり頃、16世紀の後半に作られ、天正18(1590)年6月23日に豊臣秀吉の軍勢に攻められて落城しました。その結果小田原の北条氏は降伏し、秀吉の天下統一が実現します。戦国時代の城は江戸時代と違い自然の地形を利用した山城と呼ばれるのが一般的で、八王子城跡もその一つです。城の構造は大きく3つの地区に分けられます。

1.要害地区 城の中心で、山の頂上につくられ、敵の攻撃を防ぐいろいろな工夫がされています。戦争になっち時に、ここにたてこもります。
2.居館地区 ふだん、戦争のない時に城主家臣が生活していた場所で、広い敷地に家や庭がつくられていました。ここにも敵の攻撃に対する工夫がいろいろあります。城主の館周辺は発掘調査とその後の整備によって、石垣や入り口の階段が復元され、橋も架けられました。
3.根小屋地区 城下町にあたる地区で、武将や職人たちが生活していました。これらの3つの地区はそれぞれ密接な繋がりを持ち、また、全体が敵の侵入を防ぐ施設で囲まれ、守られています。まだ、城跡全体が、詳しく調査されていないため、分からないことが沢山ありますが、城跡は400年以上の年月を経過しているにもかかわらず、当時の様子をよく残している数少ない戦国時代の城です。

城主 北条氏照
 戦国時代に小田原に本拠をおいていたのが北条氏で、三代目の氏康は早雲の孫にあたります。氏康は勢力を今の千葉県から埼玉県まで拡大し各地に城をつくりました。氏照はこの氏康の次男で、今の八王子周辺を治めていた大石氏が北条氏に支配されることになった関係でその領地を継ぎ、滝山城の城主となります。その後、八王子城に移り八王子城主となりますが、当主ではなかったにもかかわらず、城をつくる技術や戦争の方法、さらには周辺の武将との交流にすぐれた手腕を持っていたため、秀吉からも恐れられていたようです。

 特に、整備で復元された虎口の構造と石垣、石段には氏照の城に対する考え方がよく表れています。また、これは城跡から出土したいろいろの物から分かりますが、茶道や香道といった当時の武将の趣味もたしなみ、明(みん・当時の中国)から磁器と呼ばれる、そのころの日本にはなかった珍しい皿や茶碗を大量に輸入して使っていました。天正18年、豊臣秀吉によって本拠の小田原城が包囲された時、氏照は主だった武将を引き連れ、兄の四代当主氏政とその子氏直(五代当主)らとともに小田原城にいました。そのため八王子城は城主がいないまま、6月23日わずか1日で落城しました。

 その後氏直は高野山に流されるのですが、氏照は氏政とともに秀吉から切腹を命じられます。当主の氏政はともかく、氏照をもこの世から葬らなければならなかった秀吉の脳裏には、戦国武将氏照への高い評価と畏怖の念があったといえます。なお、落城後の八王子城は立入禁止とり、江戸時代は幕府の直轄地として保護されてきたため、現在までいろいろのものがよく残されていました。