昭和40年代

人口急増がもたらす問題が表面化

 昭和38年(1963年)、京王線に京王八王子〜新宿間を38分で結ぶ快速特急が走りました。続いて、昭和42年(1967年)には、中央線の高尾〜東京間に特別快速電車が運転を始めています。この年、北野〜高尾山口間を結ぶ京王高尾線が開通し、さらに翌年には、中央自動車道が相模湖まで開通するなど、都心への交通は年を追うごとに便利になってきました。そうした影響もあって、昭和40年代に入ると人口は急増します。昭和40年(1965年)に約20万人だった人口は、昭和50年(1975年)には約30万人と10年で1.5倍にも増加しました。

 周辺丘陵部の宅地開発にともなう環境破壊が問題となってきたのも、この頃のことです。そのため、東京都は八王子市をはじめとする町田市、多摩市、稲城市の4市にまたがる約3,000ha におよぶ南多摩の丘陵地に緑豊かな居住環境の新しいまち「多摩ニュータウン」計画を昭和40年に決定しました。八王子市域分では、昭和51年(1976年)に鹿島と松が谷で入居が始まり、多摩ニュータウンに住む、初の八王子市民が誕生しました。

 人口急増による無秩序な宅地開発は、都市としてのまとまりを失うばかりか、都市環境や防災の面でも問題となります。昭和44年(1969年)に新都市計画法が施行され、翌年「市街化区域」と「市街化調整区域」に区分けし、いわゆる"線引き"が行われました。さらに、昭和47年(1972年)に自然環境の保全と良好な都市環境づくりを目的に、環境保全条令と宅地開発指導要綱を制定しました。
 人口急増と高度経済成長時代の生産至上主義は "ふるさとの川" 浅川をも汚染し始めました。工場からの廃水と家庭からの雑排水は、清流を瞬く間に汚れた川に変えてしまいました。浅川で魚が何匹も浮くということもたびたびのことでした。こうした中で昭和44年に、長年の懸案だった北野下水処理場が完成、運転を開始しました。この頃から、市民の間で自然保護やいわゆる "公害" に対する取り組みが積極的に行われ始めます。

 昭和46年(1971年)に、青年会議所が提唱して行われたのが「浅川をきれいにする運動」。この運動は「浅川清掃デー」として、現在も毎年9月の第1日曜日の早朝に行われています。一方、人口の急増は、交通事故の増加や排気ガスによる大気汚染を引き起こします。市内で発生した交通事故件数は、昭和46年以来、6年連続して都内 "No.1" の汚名を記録してしまいました。
 排気ガスなどに起因する "光化学スモッグ" による影響も深刻で、昭和46年6月には1ケ月で9回もの "光化学スモッグ警報" が発令されています。こうしたことから、市と警察署、交通安全協会の3者は、この年の10月3日、全国で初めての "ノーカーデー" を実施しました。

 そして、翌年の9月から横山町から追分町までの甲州街道で、日曜日に歩行者天国が開始されました。また、美山町、小津町の採石場へ出入りするダンプカーが多く、陣場街道は別名 "ダンプ街道" とも称されました。そして、昭和49年(1974年)にこうしたダンプ公害に反対する住民大会が開かれ、市長・国会議員を先頭に陣場街道沿いの81町会、約3,400人がデモ行進を行いました。

 昭和48年(1973年)、八王子市は北海道の苫小牧市と、翌昭和49年には栃木県日光市とそれぞれ姉妹都市の盟約を結びました。その縁を取り持ったのが、江戸時代に活躍した「八王子千人同心」です。昭和48年の「八王子まつり」千人隊武者行列が参加、また、第1回青年の船では、市内の勤労青年30名が苫小牧市を訪れ、市民レベルでの交流を深めました。