昭和30年代

近隣の町村と合併で、多摩地区最大の都市へ

 昭和31年(1956年)の市勢によると、「昭和28年9月19日の市議会協議会でこの問題をとり上げ市勢拡充委員会を設けて近接町村の合併運動に乗りだした。この状況下に都知事の諮問機関として東京都町村合併促進審議会が設置され、合併について慎重な審議が重ねられて、昭和29年8月19日に東京都町村合併計画案を決定しました。

 この案による八王子周辺の合併計画は、浅川町、横山村、元八王子村、恩方村、川口村、加住村、日野町、七尾村、由井村の2町7村と八王子市を合併するもので、この案に対する都知事からの諮問に八王子市議会では同年9月14日賛成を議決するとともに、同年12月13日付で市長と議長連盟で同案件の2町7村に申し入れをおこなった。この申し入れに、横山、元八王子、恩方、川口、加住の5村が協力を表明し他の町村は合併の意志のないことを通告してきました。

 ここで市当局は2町7村の同時合併案を漸次合併の方針に切り替え、前記5村合併の実現をはかるため昭和30年1月12日市役所内に市村合併本部を設けて処理にあたった。その後同年1月17日から2月2日にわたって合併関係市村の協議が重ねられ合併計画の大綱を決定した。」とあります。

 そして、昭和30年(1955年)4月1日に、横山・元八王子・恩方・川口・加住・由井の6カ村が八王子に合併し、人口は95,068人から131,796人に増え、面積も1,988平方kmから13,960平方kmと一挙に広がりました。
さらに、昭和34年(1959年)4月1日に浅川町を、昭和39年(1964年)8月1日に由木村を合併して、人口193,346人、面積188.19平方kmとなり、人口・面積ともに多摩地区最大の都市となりました。

 昭和35年(1960年)に政府は国民所得倍増計画を決定し、日本は高度経済成長時代に入ります。合併や転入などで、いわゆる新市民が急激に増加します。昭和36年(1961年)に、市は新旧市民の融和を図るため「3万人の夕涼み」と題して、第1回市民祭現在の八王子まつりを開催します。市内パレードや富士森公園での花火大会が華やかに行われ、約5万人の市民でにぎわいました。

 一方、昭和34年(1959年)に首都圏整備法による市街地開発地区の指定を受けて、八王子市は首都・東京の衛星都市として都市整備を進めることになりました。そして、北八王子・東浅川地区などに工業団地の造成を始めました。北八王子工業団地では85件もの企業が申し込み、そのうち20工場の進出が決定しました。昭和38年(1963年)から電気機械器具や精密機械器具などの工場が操業を開始し、繊維工業中心だった八王子の工業に新たな一面が加わりました。

 また、昭和38年には市内初の大学として工業院大学が中野町に移転、開校し、今日の学園都市形成の先駆けとなりました。同じ年、市内の中央自動車道建設予定地で杭打ちが行われ、建設工事の第1歩を踏み出しました。市はオリンピック開催を前に、市民運動として「花いっぱい運動」や「清掃運動」を推進しました。また、当時「親切な明るいまちをつくろう」という提唱で、八王子市親切会が結成されました。

 昭和39年(1964年)10月、八王子は東京オリンピックの自転車競技の会場となりました。長房町に競技場現在の陵南公園・野球場が建設され、高尾ユースホステルと競技場近くに選手村の分村が開村しました。高尾街道や滝山街道がロードレースのコースとなり、沿道では多くの市民が交通整理などのボランティアに活躍し、外国から選手・役員、観光客との交流が行われました。そして、この東京オリンピックを機に、昭和39年5月9日、世界初の「新切都市」を宣言しました。