昭和前期(昭和元年〜昭和15年)

金融恐慌、そして戦時体制へ

 大正天皇の崩御によって、昭和の時代に入ります。昭和元年(1926年)は、わずか1週間で終了しました。そして、横山村大字下長房に大正天皇の陵墓地を造営し、名称を多摩陵「たまのみささぎ」とすると発表され、驚きのなかで明けたのが昭和2年(1927年)のことでした。この多摩陵造営を記念して植樹されたのが、追分から浅川駅(現在の高尾駅北口)前までの甲州街道沿いのイチョウ並木です。

 そして、この年の1月に高尾登山鉄道(現在の高尾登山電鉄)がケーブルカーの営業運転を始めたほか、3月には東京府庁舎内に府立染色試験場(現在の都立繊維工業試験場)が設立され、翌年、明神町に移転しています。また、浅川村は、この年の11月3日に町制を施行しました。いわゆる金融恐慌が起こったのも、昭和2年のことでした。全国の銀行は一斉休業に入り、八王子でも川崎銀行八王子支店や第三十六銀行で預金の取り付け騒ぎが発生しました。八王子織物同業組合でも経済の混乱で取り引きができないため、2週間にも及ぶ同盟休業を決議しています。

 昭和4年(1929年)には、ニューヨークの株式市場の大暴落が引き金となって、世界恐慌が始まります。こうした経済の好不況の影響を何とか打開しようと、織物業界では「多摩結城」などの新製品を発表しました。また、輸出にも力を入れるようになります。そして、関東大震災を契機に人々の服装は和服から洋服へ大きく転換していきます。八王子織物の生産の主流も男物から婦人物へと変わり始め、八王子の織物によるネクタイが初めて登場したのが、昭和5年(1930年)のことでした。しかし、織物の生産も昭和10年(1935年)がピークで、世の中が戦時体制になるにつれ、次第に下降線をたどることになります。

 一方、八王子市の上水道は、昭和3年(1928年)9月から給水を始めており、元本郷浄水場で取水し散田配水池から給水、給水人口はわずか2千人余り、普及率も4.2%でした。

 翌昭和4年11月には、大正14年(1925年)に成立した普通選挙法による初めての市会議員選挙が行われました。有権者数は満25歳以上の男子8,354人で、投票率は92.1%という高いものでした。議員数は30名で、民政派15名、政友派10名、中立3名、社会民衆党1名、社会大衆党1名が当選しています。

 この年の11月、浅川駅前から追分までの4kmに、武蔵中央電気軌道株式会社の市内電車が初めて走りました。その後、高尾橋〜浅川駅間と追分〜東八王子駅、横山町〜八王子駅間が延長され、運行距離は全長8.4kmとなりました。昭和10年当時の利用者は年間100万人以上、1日平均の利用者は2,889人といわれています。そして、昭和14年(1939年)6月30日に営業を停止するまでの間、市民の足として親しまれていました。

 昭和6年(1931年)に満州事変が発生し、昭和7年(1932年)に始まった上海事変には、市内からも兵士が出征し、多くの死傷者を出しました。市内では防護弾隣組が組織されるなど、世の中は次第に戦時体制へと進んでいきます。中国大陸などからの戦勝ニュースのたびに、市内のあちこちで提灯行列が行われました。市民生活も食料の配給が始まるなど、物資節約、軍事優先へと向かい、耐乏生活を強いられるようになりました。

 そして、昭和12年(1937年)の日中戦争から国内は戦時体制となります。この間、昭和4年に八王子総合労働組合が結成され、翌年、多摩地区で最初のメーデー記念演説会が開催されています。また、昭和7年には市内で初のメーデーが開かれました。しかし、戦時色が強まるにつれて労働組合は次々と解散を強いられ、昭和16年(1941年)の第2次世界大戦突入のときには労働組合の姿を消していました。

 そのようななかで、昭和6年に八王子〜飯能間の八高線がまず開通し、昭和9年(1934年)には高崎までの八高線全線が開通しています。同年10月には小宮村が町制を施行し、同じ年、小宮町内に八王子競馬場が完成しています。また、商店連盟が第1回の商業祭を開いたのは、昭和10年7月のことです。

 昭和11年(1936年)、市制20周年記念として市歌を募集しましたが、優秀作がなかったため、改めて作詞を北原白秋、作曲を山田耕作に依頼し制定しました。この市歌は、現在も市制記念日などで歌われています。