戦争時代(昭和16年〜昭和20年)

苦難の道を歩み、市内は焦土に

 昭和15年(1940年)の繊維製品配給統制規則やぜいたく品等製造販売制限規則などの公布による戦時統制体制の強化や八王子織物同業組合の解体などによって、八王子織物は大きな打撃を受けました。

 昭和16年(1941年)になると、生活必需物資統制令によって全面的に配給制が取られます。市内の工場では次々と産業報国会が結成され、織物業者の機業合同が行われました。さらに昭和17年(1942年)の企業整備令や原料・資材の割当、輸出の途絶などで、八王子は機業地としての機能をほとんど失ってしまいました。市内にあった全織機の62%が鉄材として供出され、織物工場の多くは軍需工場に転換されました。こうした軍需工場には、軍需物資の生産のため多くの学生が勤労奉仕に駆り出されました。

 昭和16年12月8日、日本はイギリス・アメリカに宣戦を布告し、日本は第2次世界大戦に突入します。緒戦の勝利もつかの間、昭和17年の3月には早くも市内に初の空襲警報が出され市民が脅かされました。こうして、日本は敗戦への苦難の道を歩み始めたわけです。

 一方、昭和16年4月には、初の市立高等女学校(現在の都立富士森高校)が開校し、10月1日には、小宮町を合併し、人口75,797人、戸数14,681戸の全国で50位の人口規模を持つ市となりました。昭和17年の市会議員選挙で当選した議員は、八王子翼賛市政会を結成しました。
 戦争が長引き、輸入が途絶してしまうと一般家庭から、なべ・かまなどの金属類の供出が始まり、寺院の梵鐘も供出されていきました。そして、各町会などで防空演習や救護訓練が盛んに行われるようになりました。
 昭和18年(1943年)7月1日、東京府は都制を施行し、東京府から東京都になりました。その年の9月13日に初の都議会議員選挙が行われています。

 昭和20年(1945年)になると食料や衣料品などは配給制となり、キップがなければ何も買えないという状況になってきます。アメリカ軍の爆撃機・B29は、日本本土の各都市を無差別に襲うようになり、市内でも空襲に備えて防空壕や公共待避所などがつくられました。3月9日に、B29約130機が東京を爆撃し焼け野原となりました。

 それ以後、八王子市内でも機銃掃射を受けたり、周辺部で爆弾が落とされたりしています。そして、8月2日未明、169機のB29が八王子を空襲し、焼夷弾や爆弾が相次いで投下され、市内は一瞬のうちに火の海と化してしまいました。郷土資料館発行の「八王子の空襲と戦災の記録」よると、焼失面積は市街地の80%以上に当たる約3万uで、14,300戸以上の家屋が焼失し、死者も450名以上を数えました。

 市役所を始め、税務署・消防署・裁判所など公共建物の殆ど、および八王子駅や小学校・映画館・銀行などの建物も焼け落ち、水道機能もマヒしてしまい、まさに都市としての生活機能は壊滅状態のありさまでした。
 それから13日後の8月15日に終戦を迎えました。