大正時代

三多摩で最初に市制を施行

 大正6年(1917年)9月1日、八王子は、三多摩で初めて、全国では60番目に市制を施行し、その日の夕方、千人町から明神町まで市制施行を祝う提灯行列がにぎやかに繰り広げられました。この年の12月末現在で、人口は42,043人、世帯数が7,126世帯、面積が7.30平方kmでした。

 折りから、世界は第一次世界大戦の真っ最中で、日本は大戦景気にわき、八王子織物も織れば売れるという時代でした。機業家は手織り機の5倍の働きをする力織機を競って導入し、八王子の織物は工業化への道を歩み始めました。そして、生産力も飛躍的に向上し、八王子の基幹産業としての地位を固めました。

 大正8年(1919年)に八王子織物の景気は最高潮に達し、いわゆる成金機屋が出現します。しかし、第一次世界大戦終了後の大正9年(1920年)、株価の大暴落に始まる株式恐慌の影響で、八王子の機業は大打撃を受け、操業時間の短縮など生産調整を余儀なくされました。以後、八王子織物は、内外の好不況に影響されながら推移していきます。

 一方、日露戦争の後、いわゆる大正デモクラシーが巻き起こり、政治・社会・文化などに大きな影響を及ぼします。政党や労働組合が結成され、普通選挙を要求する運動や労働争議などが各地で発生し、また、青年達による勉強会やグループ活動も盛んに行われるようになりました。八王子でも、次々と青年団が結成され、大正11年(1921年)には八王子連合青年団が発会しています。文芸活動も活発で、様々な文学誌や雑誌が刊行されています。
 恩方村生まれの詩人・中村雨紅(高井宮吉)が童謡「夕焼小焼」を発表したのは、大正12年(1923年)のことでした。

 この年の9月1日に関東大震災が発生しました。東京府内では、約44万戸が被災し、6万人余りの死者を出しました。しかし、八王子では全壊11戸、半壊20戸、死傷者29名、行方不明5名の被害に留まっています。大正14年(1925年)には、玉南電気鉄道(現在の京王帝都線)の東八王子〜府中間が開通しました。その翌年、大正時代は終わりを告げ、昭和の時代となります。