明治時代

神奈川から東京へ

 明治4年(1871年)の廃藩置県によって、八王子は江戸幕府の直轄領や旗本領から神奈川県に編入された。そして、明治11年には神奈川県南多摩郡役所が八王子の本宿(現在の本町)の禅東院に開設された。明治22年(1889年)に市町村制が施行され、1町・1宿・18カ村による南多摩郡が誕生しました。

 現在の八王子市域は、1町(八王子町)・9カ村(由井・横山・浅川・元八王子・恩方・川口・加住・小宮・由木)となった。当時の八王子町の人口は2万人、戸数は約4,300戸でした。この年は、大日本帝国憲法が発布された年で、また、甲武鉄道(現在のJR中央線)の八王子〜立川間が完成し、八王子〜新宿間の全線が開通した年でもある。八王子停車場(駅)は、現在の都立繊維工業試験場の辺りにあり、ホームには真黒な煙を吐いて汽車が発着していました。

 東京の水源問題に端を発した東京府と神奈川県の境界変更は、賛否が渦巻くなか、明治26年(1893年)4月1日に八王子を含む三多摩地域が神奈川県から東京府に移管された。この年、町内の中心部750戸を焼失した「新万火事」が発生しました。その火事から復興して間もない、明治30年(1897年)には、八王子町全戸数の半分以上にあたる3,341戸を焼失、42名もの死者を出した「八王子大火」が起こりました。

 この火事で、町役場をはじめ、警察署・裁判所・郵便電信局・銀行・学校など町内の重要な建物のほとんどが焼け落ち、町の再起も危ぶまれるほどでした。この2度の大火の経験から、被害を大きくした原因は狭い道路にあるとして、町は道路改修のための債権を発行、町の復興に立ち上がりました。これが、後の八王子発展の土台となりました。

 その後、明治34年(1901年)に中央線は、上野原まで開通し、浅川駅(現在の高尾駅)が開設され、八王子駅もこの時元子安(現在の明神町)から子安(現在の旭町)に移転された。さらに、明治36年(1903年)に中央線の八王子〜甲府間が、明治41年(1908年)には八王子〜東神奈川間の横浜鉄道(現在のJR横浜線)が開通しています。